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春は桃色かい?

目次

  1. まずは水仙
  2. 河津桜
  3. 寒緋桜
  4. あやめ
  5. 満作(まんさく)
  6. サンシュユ
  7. 白木蓮
  8. なんのために花を見る?

ずいぶんと暖かくなった。

昼間の陽光には抗いがたい美しさが出ている。

あたたかそう、
きもちよさそう、
ああ、外に出てぐーんと伸びがしたい!
きっと外は、昼寝する猫のお腹のようにあったかいだろう…!

そんな風に思わせる魅力がある。
冬の日差しとは違う、優しく誘うような日差し。

そんな陽射しに誘われて、呑気に外に出た。
この日記は10日前ほどに書き始めたので、出てくるお花の見頃は少し過ぎているかもしれません。
そのくらい、春はとことこ進んでいるのですね。

まずは水仙

2月頃からあちこちに咲き始める水仙達。
何なら1月下旬ごろにはもう咲いている子もいる。
まだ寒く震えるような冬。
町の花壇にはパンジーも植えられず、公園も茶色い土肌が目立つころに水仙がひょいひょいと顔を出し始めると、嬉しい気持ちになる。
あー、何かを植物を育てたいなぁ。
お花を見たい、育てたい。
日に日に膨らんでいく蕾をじーっと見つめたい。
植物を愛する気持ちが湧いてくる。

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この、中央があんまり黄色くない水仙が好きなんだ~

水仙はあまり手が掛からず放っておいても毎年咲いてくれると聞くから、いつか育てたいなぁと思っている。
鉢植えでも毎年咲いてくれるのかな?

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くれよんみたいな純粋な黄色が、かわいい…
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この子はゴージャスな感じで素敵

意外と色んな種類があって面白い。
花芯の黄色があまり濃くないのが私は好き。なんだか可憐な気がして。
多分房咲き水仙という子だと思うのだけど。
今年の秋冬にはこの水仙をお家に植えたいなぁ。

河津桜

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ピンクが濃くてかわゆい

河津桜が咲いていた。かわいい。
肉眼だともう少し濃い桃色に見えるのだけど、写真にするとソメイヨシノと見分けつかないかも。

遠目から見ると違いがよく分かる。
ソメイヨシノは白く、発光するような明るさ。
河津桜は華やかな桃色で、かわいい~と言いたくなるふりふり感があるのだ。

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この子も河津桜なのだが、色はほぼソメイヨシノだな

手入れが入る年なのか、家の周りの桜の木は軒並み枝が切られ、断面には薬が塗られていた。

病気や虫害があるからちゃんと伐ったりした方がいいと聞くし、「可哀想!」みたいな気持ちはないのだが。
あ、去年ここの桜の花を写真に撮ったな…と記憶する枝がばっつり切られていると、切ない寂しさもあった。
子どもの髪を初めて切ったみたいな、仕方ないけど、切ない寂しさだ。


寒緋桜

ちょっと見頃は過ぎているかな…?と思ったけど、元々こういう釣り鐘型みたい。
花が房になって垂れ下がっているのはとてもかわいい。
和装の人が、しゃらしゃらと面差しに垂れ下がるような髪飾りを付けていることがあるけれど、こういうお花にインスパイアされて作ったのかなあ、なんて思ったりする。

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緋、とあるだけに確かにあかい。
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すごく目立つ色で吸い寄せられたよ

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枝にお花がくっついてるタイプ。かわゆい。

初めて見た杏の花。
枝にくっついている形で咲いている。
幹に掛けられた『アンズ』という札を見上げ、私は目を瞬かせる。
あんずって、あのあんず?
ジャムや焼き菓子によく入っている、おれんじ色で優しい甘さの、あのあんずの実が頭に思い浮かぶ。
この細っこい木に、あの丸々した杏の実がなるのかしら。
杏の花は淡い桃色で、ひなあられが、ぱぁっと撒かれたようだ。
ゴッホのアーモンドの木の絵が思い出される。
満開になったら、あんずの実のような甘い香りがするのかなぁ、とわくわくする。

あやめ

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恐らく、あやめ?

寒咲あやめというらしい。
もう見頃は過ぎてるかな…という感じだけれど。
菖蒲は造形が美しい。
昔の人が、着物や帯の絵柄にした理由が分かる。
なんて高貴な花だろうか。

満作(まんさく)

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珊瑚のような、粘菌のような

珊瑚のような、いそぎんちゃくのような、深海生物のような、きのこや粘菌類のような、へんてこりんな花。
黄色いリボン状の花、とよく記述があるのだが、リボンというか完全に揚げ春雨か固焼きそばだよな…と見るたびに思う。
ポケモンでいうなら、リリーラかユレイドルだろう。

サンシュユ

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ほぼ、炒り卵

ミモザとか、黄色でほわほわした花が結構好きだ。
花粉を連想させてちょっぴり鼻がむずむずさせられるけれど、春らしくてかわいい。
これから暖かくなる柔らかな気候を彷彿とさせる。

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花の芯みたいに触ったらふわっとしそう


白木蓮

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白木蓮は愛する花のひとつ

白木蓮。
白いつぼみがふっくらと膨らみ始める様子は、いかにも柔らかそうで触りたくなるくらい。
白い小鳩の胸みたい、と思う。

木蓮の花は花弁が厚く、その重さを感じさせるようにゆったり、ゆっくり開いていく。
とても優雅だ。
しっとりと柔らかそうで、もし木蓮が人間だったら、物凄く美人だろうと思う。
肌がしっとりと湿度があって、話すのもゆっくりな方だろう。
くすくす、と小さく笑うだろうな。

そんな風に思ったりする。

なんのために花を見る?


植物を見て歩くのは、私の人生の中で幸せな瞬間の一つだとおもう。
しかも、承認欲求に付随しない、ものすごくシンプルな幸せなのだ。
たとえ褒められなくても私は散歩に行き、草花を美しいと思うだろう。
褒められたとしても、「あ、はい」という感じ。
たとえSNSがなくても、いいねがなくても、無人島にいたとしても、私は多分花を見て幸せになる。
私ひとりで、私個人で、幸せになれる。
(正確に言うと、私と花の二人で、だけど)

それはほんとうの幸せな気がするのだ。

ぜひ、散歩に出かけてみてね。
時間がゆっくりに感じるよ、


bye(╹◡╹)

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日常

この冬、初めての雪、ざらめのように

一昨日、この冬初めての雪を目にした。

風の中に、さらりと白いものが混じったかと思ったら、瞬く間に視界は粉砂糖をまぶしたような世界になった。

風は強く、雪の粒は宙で複雑にうねり、逃げ惑うようにも見えるし、こちらを翻弄して笑う悪戯なダンスにも見える。

ちょうどポン菓子の一粒くらいの大きさのそれは、雪というより、霰や雹に近いのかもしれない。
柔らかな雪ならば、触れたら繊維のようにほろりと崩れるけれど、この物体は当たっても雪溶けることはなく、肌の上で弾んでまた空へと旅立ってしまう。

自転車で、吹雪の中を割り裂いて進む。

唇、目元、頬の上を、冷たさを感じる間も無く儚い衝撃だけを残して去っていく氷の粒を感じていると、訳もなく笑い出したくなった。
とても幸せな気がして。

冷たい空気は凍るように清潔で、清廉に思えた。

両手を守るように脇の下に挟み、俯きがちに歩く人。
フードを目深に被り直す人。
上を向いて舌の上に雪を受け止める子ども。

みんな白いモザイクを纏いながら、びっくりした顔で、あるいは迷惑そうに、あるいは嬉しそうに上を見上げて、この冬を受け止めている。
みんな、祝福されているように思えた。

雪の降らない暖かいところで生まれ、育ったから、雪への思いは子供の頃に抱いていた憧れやわくわくや、愛おしさ、まだ正体を知らないサンタさんのようなときめく気持ちのまま保持されている。

雪がたくさん降り、その大変さをよく知るところに生まれていたら、きっと雪への思いは全然違うものになっていただろう。
雪が、牢獄や閉塞や苦しみの意味を持つ人もきっといると思う。

私には雪が珍しいもので、雪が喜ばしいもので、雪がキラキラした思い出になるのだ。
……霰のようなものを、雪だと言い張るくらいには。

寒い日を、雪の降った寒い日、に変えてくれたから。
私はこの霰に感謝したいのだった。

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日常

銀杏という名の宝石と災厄

みなさん、銀杏は好きですか?

秋と冬の間にいる今日この頃、銀杏は葉っぱを輝かしいレモンのように黄色に染めてめらめらと光るようです。

小さく、美しい葉を梢いっぱいにくっつけて、風が吹くごとに波打つさまは、たくさんのスパンコールが翻ってきらきらするように見えます。

街路にはたくさんの銀杏があります。
普段はそれが銀杏だなんて意識もしないまま、ちょんと刺された爪楊枝みたいに小高いその樹を傍目に通学したり、通勤したり、ジョギングをしたり、お散歩をしたりしています。
ひらひらと扇形の葉っぱが降り始める頃になって、人々は、わぁ、銀杏が綺麗だねぇと言って街路樹を見上げるのです。

愛らしい葉っぱと共に、落ち始めるものがあります。
銀杏の実です。
杏色で、ころんと楕円の形をした小さな実。
これも、見た目はなんとも秋らしくて、可愛い。
しかし…

そう。みなさん知っている通り、あれはくさい…のです!
人通りの多い道になれば、その実は人の靴に、自転車に、はたまたLUUPなんかにも踏み潰されて、なんともけったいな姿になります。
そして、あの不可思議な香りを放ち始めます。

わたしが幼稚園児だった頃、同じ組のやんちゃな男の子が銀杏の実を踏んで小一時間は泣いていました。
散歩中の犬達も怪訝そうな顔で、ふんふんとあの橙色の染みの匂いを嗅ぎます。

くさい、という害があるにも拘わらず、こんなにも街路樹として浸透しているのが凄いじゃないか、と思うのです。

調べてみると、銀杏は排気や空気の汚れにも強く、水をたくさん貯えているから街中に植えるのに適しているのだって。

しかし、それにしても……

くさい、というのはそれひとつだけでも、全ての長所を消しかねません。
くさいから植えるのやめよーよ…と言う人だっていそうなものなのに…!

というのも、私もこういうことを大阪の御堂筋を歩きながら思ったのです。
大阪の人だったら、くさいからやめようよ~とか、くさいから抜こうや~くらい、言えそうです。
(偏見すぎますね。私も普通に関西人なので許して下さい)

なのに、今日も大阪の真ん中の御堂筋沿いにはずらーっと美しい銀杏がならんでいるのです。

ま、多少くさくても…と思えるくらい、人は銀杏を愛しているのではないでしょうか?

ちらちら輝く金色の葉と、あの独特な香りを自分達の秋の記憶に結びつけて愛しているのではないかしら。

むーんとしたあの香りを感じながら、銀杏並木を歩いていてそんなことを考えたのでした。

私がもし嗅覚を失ったとしたら、銀杏に対する愛着は今より増えるのかしら、減るのかしら。
私はなんとなく、減ってしまうんじゃないかと危惧するのです。
あの匂いに煩わされることはなくなるというのに……

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日常

夏と秋の境界で、不可逆

こんなにも暑いが秋が近付いている。
……気がする。

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秋、ここにいるのか

柿の木に実が成り始めた。

赤とんぼが遊ぶように、みゅんみゅん飛んでいる。

夕方の西日に柔らかさが滲み始めている。
溶け始めた氷の切っ先のように。

けれどもやっぱり、まだ夏でもある。

昼間の陽光はビームのように私たちの脳天を照らす。
頭のてっぺんで、目玉焼きが焼けそうなくらい。

打ち水をしたアスファルトのすみっこに、まだ、ひっそりと、しおからとんぼが居たりする。

そして流れる、汗、汗、汗。
たんぽぽのように無造作に咲く、日傘の群れ。
カラフルなハンディファン。

手持ち扇風機が開発されてから、めっきり、扇子を持っている人を見かけなくなった。
それもそうだろう。
今、扇や団扇で自分をあおいでいたら、きっと炭火で焼かれる焼き鳥や、鰻みたいな気分なってしまうもの。

夏は夕暮れ時のようにゆっくりと去っていくだろう。

季節は丁寧に作られた和紙のように、グラデーションを帯びて移り変わる。
子供が急に大人にならないのと同じように。

夏の終わりの夕暮れは、美しくも湿気を帯び、湿っぽい重さと霞み、物憂げな寂しさがある。
もしも人でたとえるならば、初めて挫折を知り、諦めを覚え、その中で人の深みを携えていく大人に成り始めた子どものような後戻りのできない切なさだ。

早く涼しくなってほしいという本能的な願いは一度捨てて、今はこの青年期のような不可逆の苦味を、甘露のようにあじわってみよう。

きっと思っているより早く、時間は進んでしまうだろうから。

(アップするのをすっかり忘れて、のほほんとしている間にすっかり秋になりました。涼しい!)

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日常

夏の死、彗星は落ちていく

暗い夜道を歩いていると、とあるマンションのエントランスでアゲハ蝶が一匹、止まっているのを見つけた。

それはブロック塀の低いところ、足元に近い所にちょこんと止まっていた。

わあっと嬉しい気持ちになり、私はそおっと屈んで近付いた。
夜の暗さの中では、アゲハ蝶は普段の鮮やかさを潜めて、灰色の栞のようだった。
それはまた違った美しさで、もちろん綺麗に違いなかった。

屈んだままじりじりと近付き、写真を撮るためにスマホを取り出したところで、ふとおかしいことに気が付いた。

蝶は私が近づいても一切動く気配がないし、なんなら、風に煽られてはたはた揺らめいても、足ひとつ、触覚一つ動かなかった。

そこでようやく、その蝶が眠っているのではなく息絶えているのだと気付いたのだった。

一度気がつけば、色んなことに道理が通った。

こんな低い所に止まっていたら、猫や鳥なんかにすぐ見つかってしまう。
マンションの入り口だから人通りは多いし、ペットのワンちゃんなんかが散歩に出てきたらすぐにちょっかいをかけられるだろう。

周りには、植木ひとつない。
コンクリートに囲まれた緑の見えない世界だった。

どこか葉っぱの裏に隠れる力さえ、残っていなかったのだろうか。
ふわふわと飛ぶうちに、木々のないところまで来てしまって力尽きたのだろうか。
茹でるような暑さに耐えかねて弱ってしまったのだろうか。
アオスジアゲハなんかはよく湿ったところで水を飲んでいるけれど、今の夏は湿っているところ、なんて本当になかなかないもんね。

それとも、ただ寿命を全うしたのか。

夏は死のにおいがする。

道端には蝉たちはお腹を見せてひっくり返り、その亡骸は胡桃のように簡単に踏み潰されていく。
羽化に失敗し、オパールのような美しい色の不完全な体を、蟻達に持っていかれる蝉の幼虫たち。
干上がって道のシミになったみみず達。

炎天下の中、ちょっとそこまでだし、なんて思って帽子もなしに外に出ると
数十分もしない用事だったのに、家に帰ってくるなり、ふうっと体が重くなる。

暑さの中にいることは、体力とも気力とも違う何かが削られていくようだ。
ただの肉体疲労ではない、自分が生命体として弱っている実感を覚える。

体が太陽を吸ったように、熱く、重く、酩酊する。
目の奥が、じんわりと痛い。
横になると、抗い難い眠気がやってくる。

死ぬ、とは、こんな感じだろうか?と思ったりする。

熱く、熱く、抗い難い眠気。
自分が炎になるような感覚。
焼けていく。

この夏は感傷に浸れないほど暑く、きっと額縁に閉じ込めても熱気でガラスが割れてしまうだろう。

あの蝶が、私の全くの勘違いで、ぐっすり眠っていただけで、明日になったら露を求めてふわふわと飛んでいってくれたらいいのに。

そんなふうに思った。

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感想 日常

映画『恋するピアニスト フジコ・ヘミング』

体が鍵盤なら、心が弦だろうか

ピアノを聴くのが好きだ。
ポロンポロンと音が粒のように耳に入ってくるのがとても好き。

好きだけれども、正直上手い下手はよく分かっていないと思う。
テレビで見かけたもの、Youtubeに投稿されているもの、街中のストリートピアノで誰かが弾いているもの。
大体、いいねぇ、と言う気持ちで何でも聞いている。

良し悪しはわからないけれど、分からないなりにも好き嫌いはあるようで、
自分で選んで聴くときは大体辻伸行さんかフジコ・ヘミングさんのピアノを聴いていた。

辻さんのピアノは光の粒がポロンポロン落ちるみたいで心地いい。
明るくて、澄んでいて、軽やかだけれど、手のひらにハムスターを乗せた時みたいな心地よい重みがある。
絵画なんかで天使や女神たちはぽうっと金色の光まとっているが、あれをキュッと固めて小さなボールみたいにしたのが辻さんのピアノの一音一音みたいだとよく思う。
YouTubeの辻さんの演奏動画に、傘に雨粒が落ちているみたいな音色だと称賛しているコメントを見たことがあるが、本当に、まさにそんな感じ!
なんて言語化の上手い人なんだ…と感動したことがある。

フジコさんのピアノは、また少し違う趣きだ。

フジコさんの音色には湿度がある。

もし例えるとしたら、落ち葉の広がった煉瓦道みたい。
それもかさかさの乾燥したのじゃなくて、しっとり湿っていていい匂いのするやつ。
霧がかった、少しひんやりする日で、ブーツで踏んだ落ち葉の重なりは少し柔らかい。
木々や、森の深い、いい香りがする。重低音のような重みと響きのある良い香りだ。
そこに時折、柔らかい西日が差してきて、きらきらする感じ。

明るさで例えるなら、太陽ではなくて蝋燭の灯り。
黄金だとするなら、教会の古びた鐘みたいに、少しくすみを携えた輝きだ。

そういうロマンティックさと、薄暗さと、湿度を帯びた落ち着きが、聴いていてたまらなく心地いい。

音楽に詳しくないから、良い悪いも何も分からないけれど、私はフジコさんのピアノが一番に好き。

私が初めてフジコさんを知ったのは、演奏ではなく、本でだった。
(もちろん有名なピアニストらしい、という事と、お名前だけは知っていたけれども)

フジコさんが小学生の頃に書いていた絵日記を書籍化した『フジコ・ヘミング 14歳の夏休み絵日記』を読んだのが出会いだった。

この本は、フジコさんの子供の頃の生活を素敵な絵と共に綴っている。

書籍化するにあたって、少しエッセイというか、ちょっとした文章が追加されていたのだが、その中に、

自分は人と会うだけで疲れ切ってしまう。仲のいい人でも、好きな人でもそう。何日も続けて会うようなことがあったら寝込んでしまう。一人でいて、猫や犬たちと一緒にいる方がよっぽど心が安らぐ。

こういう一文があった。

この一文を見て私は驚いた。
私も何とかかんとか学校や仕事に行っていたけれど、たまらなくヘトヘトだったし、どうして他のみんなはこれを普通にできるんだろう?そして私はどうして出来ないんだろう?そう思いながら生きてきた。

生まれて初めて自分と同じような人がいると知った瞬間だったし、そういう人が大人になるまで生きているのが嬉しかった。
私もどうにか生き方を探せば生きていけるのかも、と思った瞬間でもあった。

そこからフジコさんの演奏を聴き始め、うっとり、うっとり、その素敵な調べの沼にはまっていった。

結局、生の演奏会に行けたことはない。
(全然チケットが取れなかった!)
今回、映画館のよい音響で演奏を聴けてよかったと思う。

中でも、パリでの光の演出を使ったライブが特に美しかった。
真っ赤な光の中に、ピアノと、フジコさん。

真っ黒なピアノは横たわった鯨のように、艶々と美しく光を放ち、
フジコさんは、彼女らしい、彼女にしか似合わないような、繊細で独特で、キラキラした飾り物を髪や首にたくさんつけて、ピアノの前に座っている。

美しくて、美しくて、
目からの情報、耳からの情報、頭に入ってくるもの全てが自分の細胞を癒してくれるのを感じた。


教会でのライブも最高だった。

自分には信仰はないけれど、何かを信じる心や、それを共有している人たちの心の繋がり、心のどこかで互いを少し家族のように思っているような暖かな空気感。

許されているような、受け入れられているような、歓迎されているような、そういう気の緩みをもたらしてくれる温度感。
わぁ、なんかいいな、と思ったし、初めて宗教の本当の意味が分かった気がした。

そういう、焚き火を囲んでいるような雰囲気の中に、流れ出すフジコさんのピアノは本当に荘厳で、でも私達からかけ離れたものではなくて、すぐそばにある救い、という感じがした。
紛れもなく神聖なものだけれど、触れられない大天使のようなものではなくて、どこか庶民的な、小さなものにさえも光を与えてくれるような、そういう小さな妖精のような、近しいものに思えた。

ピーナッツのシュローダーのようにピアノと生きられたなら、
幸せでもあるだろうし、快楽的な苦悩だってあるだろう
君にとってのピアノは何かしら?


フジコさんを好きになってから、彼女の書いた書籍や出演されている映像作品などはいくつか見てきた。
大変な生い立ちの中生きてきた方だが、中でも私が素晴らしいと思うのが、両親を不完全な人間として許し、愛しているところだ。

私も家族のことでかなり悩んでいたため、フジコさんの文章や言葉には沢山感化され、改めて両親のことを人として捉え、考えるきっかけになった。

…が、まだフジコさんの領域には到達できていない。

映画の中で、フジコさんは父の写真を見て、
「他に相手がいないと駄目な人だったから。一人じゃ駄目な人だったからね」と彼の浮気について話した。
実の父が浮気したことを理解し、彼の持つ弱さやそういう状況に陥った事情を理解し、許している。

フジコさんのお父様は結局家に戻らず大人になった彼女と会うことはなかったが、一度だけ電話をした時に、昔と変わらない、年寄りの声じゃない声で「アロー」といってくれて嬉しかったと話していた。

父が、年老いた老人でなく、自分の知っているままの男性でいてくれてよかったと思えるまで、どのような心の変遷を辿ったのだろう?

自分や家族を置いて去っていった父。
怒りが真っ先にあっただろうし、悲しみも勿論あっただろう。

どうして愛していられたんだろうか、と思ってしまう。
どうして愛を愛のまま保持していられたんだろうか?
それとも、一度は憎み、嫌いになって、
そこからもう一度愛すことにしたんだろうか?
それはどうやって?

彼女の母親もまた、かなり付き合いの難しい方だったようだ。
書籍『フジコヘミング 運命の力』の中にも、ばか、あほと暴言を吐かれることは日常茶飯事。
吠えるけれど中身がない、犬のような人だったと書かれていた。
それなのに、うんざりしていたが、それでも人間の中で一番愛していると綴っている。

パリの家のピアノにも、日本の家のピアノにも、フジコさんは家族の写真を飾っている。
いつでも見られるように、と。

世界の流れの中で生きた両親を、ただ一人の人として見つめ、欠点や弱さを見つめ、許し、愛している。そういうところがすごいな、と思った。

そういった許しが、私はまだ出来ない。
そう思ったりもしたし、フジコさんのピアノに滲み出ているのはこういう全てを真っ直ぐ見つめ、美化もせず、かといって憎みもせず、本当を捉えながらただ見据える、眼差しのような気もした。

フジコさんのピアノには、やっぱり根底として暗さがある。

人生に悲しいことや苦しいことが起こりうること。
人が人を傷つけること、傷つけ合うこと。
軽薄さ、無配慮、悪意、運のなさ。
そういう現実的な悲しみ、虚しさ。

そういった現実的な悲しみを受け止めきったその奥で、でもやはり人や世界や命を愛したいとか、許したいとかそういうふうに思っている人でないと醸し出せない何かがある。

彼女の諦めと、許しと、その奥にある本当の優しさが、ピアノに滲み出ている。

そういう、フジコさんの生きる血流みたいなものが、音に流れ出て、わたしたちを癒し、感動させるのだろう。

薄暗い洞穴の中で、一瞬ちらりと光るルビーの原石のように、薄暗く悲しいこの世界に、絶望や悪辣のもう一つ先に、そういう本当の希望があると教えてくれるような。

そういう、優しさと、強さと、粘りと、図太さと、
そして何より清らかさを教えてくれた映画だった。

清らかさとは、本当に清らかであるかではなく、清らかでないことを許すことと、その上で清らかであろうと願うことだと思う。

上映館が少なくて少し遠出して観に行ったのだが、観てよかったと心から思えた映画だった。
まだ幾つかの映画館では上映しているので、気になっている方は是非映画館で見てほしい。

疲れている人、傷付いた人。
その傷が、まだ乾ききらず傷口のままな人。
何かから逃げている自覚のある人、
自分を直視するのが怖い人。
ただただ、もう、何にも考えずに眠りたい、と思う人。

そういう人に特に観てもらいたいと思う映画だった。

もし配信が始まったら、部屋を真っ暗にして、蝋燭だけ灯して、毛布にくるまってぬくぬくしながら子守唄のように観てほしい。
時計もスマホもどこかにしまって、
お母さんのお腹の中にいるみたいな、そんな気持ちで、ぜひ。

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秋は木漏れ日の香り

八月に秋はなかった。
九月の終わりにはあったかもしれない。
十月になった今、確実に秋の鼻先がここにある

昨日なかったものが今日はここにある。
ここにあったものも、いつかここからなくなってしまう。

時の流れは実在するか分からない。
ただ人間がチクタク動く時計をありがたがっているだけかも。
夜は明けるのではなくて、大きな巨人がこの地球に覆いを被せたり取り除いたりしているだけかも。

だけども秋はやってくる。

夏の間、ああ、早く秋が来ればいいのに、なんて思っていた汗だくの大人たちの願いを叶えるように
夏の日差しの強烈さに乾涸びてしまった植物たちに慈悲を与えるみたいに

ううん、それはうそ

秋は私たちの気持ちを知らない。
秋も夏も地球も空も私たちの気持ちなどお構いなしにただ自分の出番がやってくるとキラキラと輝かしくその美しさを披露するだけなのだ。

先日、おかわかめに蕾の花房ができた。

おかわかめは初夏から晩夏まで蔓を伸ばし葉っぱをつけ、秋には花を咲かせる。

まだ日中気温は30度前後だった。
なのに植物には秋の訪れがわかる。

私より美しい世界に住んでいる住人、という感じがする。

この子には、植物には、世界はどんなふうに感じられているんだろう。

色はあるんだろうか。
匂いは、温度は、速度は、感触は?

私たち人間より、ゆったりと、穏やかで、
音楽で言うならチェロのような世界なのではないかと夢想している。

植物たちにとっての秋は、芳醇で、豊かで、幾重にも重なり合う心地よい旋律
裸で絹のシーツにくるまるような肌寒さと気持ちよさ

人間は、そのおこぼれを貰っている、と言う気がしている

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心地よさを感じに、外を歩こう

君がいる世界に秋があってよかったな
私のいる世界に秋があってよかったな

秋って素敵なものだから
手のひらにそっと包み込んで、誰かに見せたくなるものだから

でも、そうできないところがもっと素敵なんだよね

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夏の気配!

暑〜い!もう夏やん!!!

いや、まだ梅雨入りしたところなんやけどさ、毎日30度近く気温が出てたら、それってもう夏みたいなもんだよね…

夏って、水が力を持つ季節だと思う。

川とか、湖とか、海だとか。

水面が大きな生き物の鱗みたいに光って、めらめらしている。
めらめら、ぬらぬら、ぎらぎら。

隠しきれない生命力が奥底から溢れ出している感じ。

こういう水塊を見ると、ああ、夏が来たなぁ、って思う。
誰にも止められない夏が来た。

雪崩れてくる力のように、堰き止められない強風のように、
太陽が力を持ち、青空が力を持ち、雲たちが力を持ち、
中からぐつぐつ溢れてくる生命の力が地球を沸騰させる。

じりじりしたコンロの火みたいな日差しとか、
でっかい入道雲とか、
さっきまで晴れてたのに急に雷ごろごろ言ってるとか、
え?あーしのこと殺す気?みたいな豪雨とか。

そういうことに出会うと、
君って、そんなに力あったんだ。
そりゃ、人間って無力だね、って思っちゃう。

人々は科学でそれにそれに適応したんだろけどね。

今日は雨上がりだったからか、川はたっぷり水を蓄え悠々としていて、
草も木々も瑞々しくぷるぷるしていた。
日に当たっている草むらは西日で黄金に輝いていたし、
日陰の木々はお澄ましな感じで、しっとりといい香りがしていた。

いい感じだね、何事も。
そんな感じ。

そんな感じの世界。

これからもっと暑くなるだろうけど、やっぱり外に出たいな。
散歩行きたいな、って思う。

みんなはどう?
ちなみに、今日すごく月が綺麗だったから、お家の周りが曇りじゃないなら見た方がいいよ🌕



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