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感想 日常

映画『恋するピアニスト フジコ・ヘミング』

体が鍵盤なら、心が弦だろうか

ピアノを聴くのが好きだ。
ポロンポロンと音が粒のように耳に入ってくるのがとても好き。

好きだけれども、正直上手い下手はよく分かっていないと思う。
テレビで見かけたもの、Youtubeに投稿されているもの、街中のストリートピアノで誰かが弾いているもの。
大体、いいねぇ、と言う気持ちで何でも聞いている。

良し悪しはわからないけれど、分からないなりにも好き嫌いはあるようで、
自分で選んで聴くときは大体辻伸行さんかフジコ・ヘミングさんのピアノを聴いていた。

辻さんのピアノは光の粒がポロンポロン落ちるみたいで心地いい。
明るくて、澄んでいて、軽やかだけれど、手のひらにハムスターを乗せた時みたいな心地よい重みがある。
絵画なんかで天使や女神たちはぽうっと金色の光まとっているが、あれをキュッと固めて小さなボールみたいにしたのが辻さんのピアノの一音一音みたいだとよく思う。
YouTubeの辻さんの演奏動画に、傘に雨粒が落ちているみたいな音色だと称賛しているコメントを見たことがあるが、本当に、まさにそんな感じ!
なんて言語化の上手い人なんだ…と感動したことがある。

フジコさんのピアノは、また少し違う趣きだ。

フジコさんの音色には湿度がある。

もし例えるとしたら、落ち葉の広がった煉瓦道みたい。
それもかさかさの乾燥したのじゃなくて、しっとり湿っていていい匂いのするやつ。
霧がかった、少しひんやりする日で、ブーツで踏んだ落ち葉の重なりは少し柔らかい。
木々や、森の深い、いい香りがする。重低音のような重みと響きのある良い香りだ。
そこに時折、柔らかい西日が差してきて、きらきらする感じ。

明るさで例えるなら、太陽ではなくて蝋燭の灯り。
黄金だとするなら、教会の古びた鐘みたいに、少しくすみを携えた輝きだ。

そういうロマンティックさと、薄暗さと、湿度を帯びた落ち着きが、聴いていてたまらなく心地いい。

音楽に詳しくないから、良い悪いも何も分からないけれど、私はフジコさんのピアノが一番に好き。

私が初めてフジコさんを知ったのは、演奏ではなく、本でだった。
(もちろん有名なピアニストらしい、という事と、お名前だけは知っていたけれども)

フジコさんが小学生の頃に書いていた絵日記を書籍化した『フジコ・ヘミング 14歳の夏休み絵日記』を読んだのが出会いだった。

この本は、フジコさんの子供の頃の生活を素敵な絵と共に綴っている。

書籍化するにあたって、少しエッセイというか、ちょっとした文章が追加されていたのだが、その中に、

自分は人と会うだけで疲れ切ってしまう。仲のいい人でも、好きな人でもそう。何日も続けて会うようなことがあったら寝込んでしまう。一人でいて、猫や犬たちと一緒にいる方がよっぽど心が安らぐ。

こういう一文があった。

この一文を見て私は驚いた。
私も何とかかんとか学校や仕事に行っていたけれど、たまらなくヘトヘトだったし、どうして他のみんなはこれを普通にできるんだろう?そして私はどうして出来ないんだろう?そう思いながら生きてきた。

生まれて初めて自分と同じような人がいると知った瞬間だったし、そういう人が大人になるまで生きているのが嬉しかった。
私もどうにか生き方を探せば生きていけるのかも、と思った瞬間でもあった。

そこからフジコさんの演奏を聴き始め、うっとり、うっとり、その素敵な調べの沼にはまっていった。

結局、生の演奏会に行けたことはない。
(全然チケットが取れなかった!)
今回、映画館のよい音響で演奏を聴けてよかったと思う。

中でも、パリでの光の演出を使ったライブが特に美しかった。
真っ赤な光の中に、ピアノと、フジコさん。

真っ黒なピアノは横たわった鯨のように、艶々と美しく光を放ち、
フジコさんは、彼女らしい、彼女にしか似合わないような、繊細で独特で、キラキラした飾り物を髪や首にたくさんつけて、ピアノの前に座っている。

美しくて、美しくて、
目からの情報、耳からの情報、頭に入ってくるもの全てが自分の細胞を癒してくれるのを感じた。


教会でのライブも最高だった。

自分には信仰はないけれど、何かを信じる心や、それを共有している人たちの心の繋がり、心のどこかで互いを少し家族のように思っているような暖かな空気感。

許されているような、受け入れられているような、歓迎されているような、そういう気の緩みをもたらしてくれる温度感。
わぁ、なんかいいな、と思ったし、初めて宗教の本当の意味が分かった気がした。

そういう、焚き火を囲んでいるような雰囲気の中に、流れ出すフジコさんのピアノは本当に荘厳で、でも私達からかけ離れたものではなくて、すぐそばにある救い、という感じがした。
紛れもなく神聖なものだけれど、触れられない大天使のようなものではなくて、どこか庶民的な、小さなものにさえも光を与えてくれるような、そういう小さな妖精のような、近しいものに思えた。

ピーナッツのシュローダーのようにピアノと生きられたなら、
幸せでもあるだろうし、快楽的な苦悩だってあるだろう
君にとってのピアノは何かしら?


フジコさんを好きになってから、彼女の書いた書籍や出演されている映像作品などはいくつか見てきた。
大変な生い立ちの中生きてきた方だが、中でも私が素晴らしいと思うのが、両親を不完全な人間として許し、愛しているところだ。

私も家族のことでかなり悩んでいたため、フジコさんの文章や言葉には沢山感化され、改めて両親のことを人として捉え、考えるきっかけになった。

…が、まだフジコさんの領域には到達できていない。

映画の中で、フジコさんは父の写真を見て、
「他に相手がいないと駄目な人だったから。一人じゃ駄目な人だったからね」と彼の浮気について話した。
実の父が浮気したことを理解し、彼の持つ弱さやそういう状況に陥った事情を理解し、許している。

フジコさんのお父様は結局家に戻らず大人になった彼女と会うことはなかったが、一度だけ電話をした時に、昔と変わらない、年寄りの声じゃない声で「アロー」といってくれて嬉しかったと話していた。

父が、年老いた老人でなく、自分の知っているままの男性でいてくれてよかったと思えるまで、どのような心の変遷を辿ったのだろう?

自分や家族を置いて去っていった父。
怒りが真っ先にあっただろうし、悲しみも勿論あっただろう。

どうして愛していられたんだろうか、と思ってしまう。
どうして愛を愛のまま保持していられたんだろうか?
それとも、一度は憎み、嫌いになって、
そこからもう一度愛すことにしたんだろうか?
それはどうやって?

彼女の母親もまた、かなり付き合いの難しい方だったようだ。
書籍『フジコヘミング 運命の力』の中にも、ばか、あほと暴言を吐かれることは日常茶飯事。
吠えるけれど中身がない、犬のような人だったと書かれていた。
それなのに、うんざりしていたが、それでも人間の中で一番愛していると綴っている。

パリの家のピアノにも、日本の家のピアノにも、フジコさんは家族の写真を飾っている。
いつでも見られるように、と。

世界の流れの中で生きた両親を、ただ一人の人として見つめ、欠点や弱さを見つめ、許し、愛している。そういうところがすごいな、と思った。

そういった許しが、私はまだ出来ない。
そう思ったりもしたし、フジコさんのピアノに滲み出ているのはこういう全てを真っ直ぐ見つめ、美化もせず、かといって憎みもせず、本当を捉えながらただ見据える、眼差しのような気もした。

フジコさんのピアノには、やっぱり根底として暗さがある。

人生に悲しいことや苦しいことが起こりうること。
人が人を傷つけること、傷つけ合うこと。
軽薄さ、無配慮、悪意、運のなさ。
そういう現実的な悲しみ、虚しさ。

そういった現実的な悲しみを受け止めきったその奥で、でもやはり人や世界や命を愛したいとか、許したいとかそういうふうに思っている人でないと醸し出せない何かがある。

彼女の諦めと、許しと、その奥にある本当の優しさが、ピアノに滲み出ている。

そういう、フジコさんの生きる血流みたいなものが、音に流れ出て、わたしたちを癒し、感動させるのだろう。

薄暗い洞穴の中で、一瞬ちらりと光るルビーの原石のように、薄暗く悲しいこの世界に、絶望や悪辣のもう一つ先に、そういう本当の希望があると教えてくれるような。

そういう、優しさと、強さと、粘りと、図太さと、
そして何より清らかさを教えてくれた映画だった。

清らかさとは、本当に清らかであるかではなく、清らかでないことを許すことと、その上で清らかであろうと願うことだと思う。

上映館が少なくて少し遠出して観に行ったのだが、観てよかったと心から思えた映画だった。
まだ幾つかの映画館では上映しているので、気になっている方は是非映画館で見てほしい。

疲れている人、傷付いた人。
その傷が、まだ乾ききらず傷口のままな人。
何かから逃げている自覚のある人、
自分を直視するのが怖い人。
ただただ、もう、何にも考えずに眠りたい、と思う人。

そういう人に特に観てもらいたいと思う映画だった。

もし配信が始まったら、部屋を真っ暗にして、蝋燭だけ灯して、毛布にくるまってぬくぬくしながら子守唄のように観てほしい。
時計もスマホもどこかにしまって、
お母さんのお腹の中にいるみたいな、そんな気持ちで、ぜひ。

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